鏡のない部屋 -ゆめうつつ- |
目の前で、白髪の男がせわしなく動き回っている。 男は、赤い壁のそばに置かれた汚らしいスチール缶へ、それまで手にしていた古いメディアを投げ捨てた。 大仰な身振りで、男は連れの青年を振り返る。 青年は戸惑った表情で男を見返し、綺麗な英語で謝罪の言葉を繰り返している。 古い映画だった。 僕が生まれるよりずっと前、たぶん、僕の父よりも年寄りの映像だろう。 パラドクスを扱った喜劇で、今見させられているこのシリーズは、未来都市が舞台らしかった。ストーリィはありきたりで、僕にはつまらなかったけれど、昔の人間が考えた「未来」の描写は滑稽で、その点では喜劇そのものだと思えた。 「見させられている」というのは、古典の授業の一環として、である。「名作」と呼ばれる映画の鑑賞は、古典英語の教材としてまさにうってつけだと、教師は思い込んでいるのだろう。その理屈は確かに正しいが、ディープ・クラシカルを愛する僕ら若者にとっては、しょせん退屈に退屈を重ねているだけに等しい。きっと、他のクラスメイトたちも、あくびをこらえ切れないでいるはずだ。 白髪の男は、両目を見開いて、何かをわめいている。 僕は何だか、この男の大げさな演技が気に入らなくて、映像のウインドウを閉じてしまった。しかし、授業中なので仕方なく、サウンドだけは切らずに繋いでいる。重要なのは古典英語の、今は廃れた単語と発音だけだから、音声情報だけで充分だ。 それにどうせ、そろそろ授業終了のベルがなる時刻だった。僕の頭の中で、終了までのカウントダウンが始まる。五、四、三、二、一… 『一つは気絶するか、もう一つはパラドクスが生じ、時空が糸のように解け、全宇宙が爆発するかも…』 白髪の男の声が中途半端に途切れ、それから、聞き慣れたベルが鳴り響いた。 授業が終了し、クラスメイトたちが三々五々と散っていく。 数人の男子のグループが、何やらひそひそと雑談していた。その中の一人が、一人でいる僕に目をつけ話しかけようとしてきたが、彼らの密やかな歓談の邪魔をしたくなかったので、近寄られる前に遮断する。 ……いや、彼らの会話の内容が想像できたから、自らシャットアウトしたのだった。 彼らの表情や独特の笑い声から、何を話していたかは容易に想像できる。その手の話題は、もうずっと苦手だった。 どうも、自分は、周囲の人間と違うような気がしてならない。幼い頃からそう思っていた。 親や教師から、成長が遅い、注意力が散漫だ、自分の殻に閉じ持っている、などと言われながら育った。だが、当人としては、彼らの分析は言い得ているようで根本的には間違っている、とも思っていた。 ゆめうつつ。 これが、自分自身を一番よくあらわしている言葉だと、僕は思う。 もやのかかった、道のない草原を、方位磁針も地図も持たずにさまよう自分。 どこにいるのか、何を目的に歩いているのか、いや、歩いているのか立ち止まっているのかすら分からないのだ。もしかしたら、まだ眠っているのかもしれない、とも思う。 しかし、まだ日が昇る前の暗い時刻なのだろうと、それだけはイメージしていた。これは、何故だろう? そのうちもやに日が差せば、少しは晴れてくれると思うから、だろうか。 頭の中のもやをイメージすると、いつも空虚な気分になってしまう。 僕は、そのからっぽの部分を埋めたくて、さわやかな風がほしくなった。 真横の窓から薄汚れた青色が見える。空だ。 手を伸ばして、窓を開ける。開けてはいけないと先生から言われているのだが、こうして時々、こっそり風を採り入れていた。 風が指の隙間を通り抜ける。だが、からっぽな気分は、そもそも風などで埋まることなどないはず。風はただ、そこを通り抜けていく。 本当は、僕を惑わすこのもやを、吹き飛ばしてほしいのだ。それが、根本的な解決になるはずだろう。もやさえ消えれば、道がなくとも、目的地を見ることくらいはできるかもしれない……。 しかし、今日の風も、僕のもやを吹き飛ばしはしなかった。弱々しくもやが揺らぐものの、僕はいまだ迷い続けている。 気づくと、始業のベルが鳴り始めていた。 あわてて窓を閉め、ウインドウを開いた。 |
つづく… wrote by MooPong |
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